世田谷の注文住宅|ホープスができるまで③|(株)ホープス代表 清野廣道のブログ
世田谷の注文住宅|(株)ホープス代表 清野廣道のブログ
[ホープスができるまで③]
10年勤めた会社を退職し、独立を決意。まず思ったのは、「ゼネコンの下請けをやるだけでは、絶対にゼネコンより幸せになれな い。」ということでした。ゼネコンの下請けをやらないようにするには、自分で仕事を取ってこないといけません。でも、私には建築や財務の知識はあっても、 営業のノウハウがありませんでした。
そこで、「営業をやらせてください!」と従業員10名ほどのリフォーム専門会社の門を叩き、転職しました。
そこで志願したのは、営業の中でもいちばんキツい飛び込み営業です。
毎日40件ほどのお宅をアポなしで訪問。
まず、相手にされません。インターホンを押しただけで怒鳴られます。ケチョンケチョンにされます。訪問先の奥様やご主人が、ほんのちょっと話してくれるだけで嬉しかったです。
こうして、日中は飛び込み営業、夕方に帰社後は他の営業マンが取ってきた見積もりを「俺にやらせて!」と頼んで、深夜まで見積もり作業をする、そんな毎日を送っていました。ほとんど徹夜で作業する日も多く、半分は会社に泊まっているような状況でした。
営業→見積もり→引き渡し→営業→見積もり→引渡し→営業→見積もり→引渡し
明けても暮れても、このサイクルです。そんな忙しない日々を送っているうちに転職して早1年が過ぎ、東京支店の支店長になりました。
ここでは、スタッフ3〜4人のチームを編成し、一通りの業務を行うことを覚えました。
そして、支店長になって1年後の平成10年、リフォーム会社を退職、いよいよ独立に向けて始動したのです。
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ホープスが生まれたのは、実は最初に勤めたゼネコンを退職する1年前の1995年です。独立の意志が揺らがないように、登記だ けしておいたんです。「せっかく登記したのにもったいないから、いずれ実体化させようとなるだろう」という読みもありました。そうでもしないと、夢のまま 終わってしまうような気がしました。
ただし、二足のわらじ(ダブルワーク)を狙っていたわけではありません。社内規約云々ではなく、そういうことをするとどちらの業務も中途半端になりそうですし、結果、勤めている会社やお客様の信頼を裏切るようでイヤだったんです。
ホープスを起ち上げたのは1998年、その頃、世の中はようやくインターネットが普及しはじめようかという時期でした。ホーム ページを持たない会社がまだ多かったですし(今は、起業したらまずホームページを作りますよね)、あってもカタログをぺたぺた貼ったような、決してクオリ ティが高いと言える代物ではありませんでした。ホープスもホームページを作りましたが、サイト経由の仕事依頼は1件もありませんでした。
営業はもっぱらアナログ方式、昔とったナントヤラで飛び込みの一本槍でした。「塗装の補修しますよ!」「配管設備でお困りでし たら直しますよ!」「ビルの改修、お考えではありませんか?」…こんな感じで、個人法人問わず片っ端から飛び込んでいました。いま思えば、事前のテレアポ という手段もあったでしょうが、当時は思い浮かびませんでした(笑)
こうして水漏れの無料診断や建物診断などを行いながら、修繕の仕事を受注し、ひとつひとつ獲得していきました。
結果的に遠回りをしていたのかもしれませんが、その時点でベストだと判断していたわけですから、これでよかったんだと思います。自分が納得しないと先へは進めませんからね。