世田谷の注文住宅|ホープスができるまで①|(株)ホープス代表 清野廣道のブログ
世田谷の注文住宅|(株)ホープス代表 清野廣道のブログ
[ホープスができるまで①]
お客様との打合せの初回、まずお話しするのが「なぜ、私がホープス始めたのか」「どうして、建築士になったか」です。私から話す前にお客様から訊ねられることもあります。そこで、自分の歩んできた道を振り返る意味もこめて、何回かに分けて「ホープスができるまで」をここに綴ってみたいと思います。
建築関係の仕事に就きたいと思ったのは、私が10才のころでした。それは強烈で明確な想いで、進学から就職、現在に至るまでブレることはありませんでした。
子どものころ、年末年始は毎年、工務店を営んでいる母方の伯父の家に私は遊びにいっていたんです。伯父の家は、2階建ての大豪邸。自分のうちが小さな平屋だったので大豪邸に感じたのかも知れませんが、遊んでいてよく階段から落ちました。こども心に、遊びにいくたび「すげーっ!」と思ってました。
年末年始を伯父の家で過ごすのは、私だけではありませんでした。毎年、従兄弟が20人くらい集まるんです。それがまた楽しみで、冬休みに入るともう伯父の家にいく日が待ち遠しくて。「もういくつ寝ると、お正月〜♪」ではなく、「もういくつ寝ると、おじさん家〜♪」みたいな感じでしたね。
伯父の家では、チビッコ大集合でトランプや人生ゲームに興じたり、まさにパラダイス!!!
そして小学4年のとき、「ハッ!」とひらめいたんです。伯父と同じ建築関係の職業に就けば、大人になってもこういう生活を毎日送れるんだって。プラモデルなんかのモノ作りも好きでしたし、家をつくるっていうのはその延長線にあるようなもんだろう、これはいいぞ、と。ならば、夢はデッカク建築会社の社長になろうと。もう自分の未来像が明るくまぶしい光を放っているようで、想像だけてうっとりしちゃってましたね。
思えば、小学生のころは毎日が冒険でした。
横浜の自宅近くで、友達10人くらいが集まって、近所の森や公園でいつも遊んでいました。そこらへんで拾ってきたガラクタやベニヤ板やいろいろな材料で森の中に基地(小屋)を造ったり、囲炉裏のようなものも造ったり、お鍋でインスタントラーメンを作ったりして。ボヤが出たりしたこともあり、いま考えると火事になってしまう恐れもあり、自分の子どもがやっていたら、怒鳴りつけているかもしれません。私が子どものころは好きに遊べる環境があって幸せだったなと思います。
そんな少年時代から先の進路は “ルート建築街道” まっしぐら、大学進学の際は迷うことなく建築学科のある学校しか受験しませんでした。早稲田大学理工学部建築学科で構造設計を学んだ(遊んだ?)4年間は、小学生のころに思い描いた未来像に向かって確実に一歩ずつ階段を上がっているという実感に満たされた、いま思えば夢のような時間でした。
そして、就職活動の時期。唯一悩んだのが、「ゼネコンか、デベロッパーか」の選択でした。(この続きは、また機会を見つけて書いてみたいと思います。)